能天気な気分と深刻な気分がぐるぐると行ったり来たり回ったりなんだりかんだりしながら、なんだか毎日一応働いています。幸運にも今のところ毎日楽しく働いているけれど、毎秒0.4円。契約期間ももうじき終わるかも。住む家と飯のためには働かなきゃいけないわけで、そこに画材費とアトリエ代毎月3万円、今はメンバーが増えてちょっと安くなったけど。俺の収入だと案外絵を描くのも大変だ。今の生活だと1日4時間ぐらいは制作できるけど、本だって読みたいし映画も見に行きたいし遊びにも行きたい。こんな事言ったってしょうがないんだけど、宮廷画家や制作で生活費が賄える人たちの制作スタイルとは今俺は全然違うってわけなんだな。フランスハルスの慈善院の絵は、ハルスにパンをくれた人たちを描いてるらしいけれど、みんな凄く怖い顔をしているよね。気分によったら俺も人の顔があの瞬間でしか思い出せない時があるかも。あー、書く必要のない様な事を書いてるんだろうか。

たぶん2月にみんな本格的に思ったと思うけど、俺たちはいったい何ができるんだろうと思う。色んなアーティストがいるし、他の人はわかんないけど、俺はただでさえチンケな絵描きだから、以前から思っていることだけど、こんなにアトリエに籠っていていったい何になるんだろうと思い続けている。コロナになった当初、手洗いワークショップをしているアーティストに対して、こんな事しかできないのかとがっかりしているというツイートを見かけた事があるけど俺もがっかりする側だと思う。この世界で起こってることと制作だか作品だかナンだかの距離感って俺にはまだ手探りなところが多くて、結局見ている事しかできていない俺よりはマシなのかな。このアトリエで何ができるんだろう。何もできないだろう。坂口安吾が終戦直後に書いた事っていったい何なんだろう。あの中で何を見て考えていたのだろう。俺にはわからん、わからん、わからん。藤本タツキの短編の巻末に、美大生の頃に震災が起こって絵を描いてる場合じゃないと感じてボランティアに行ったって話が書いてあった。

そういえばあの時の俺はニュースの映像で心臓をバクバクさせていただけで、インターネットで放射能の事を半端に調べて慌てたり、計画停電になった街を自転車で徘徊しながら、そろそろ仕事を探さなきゃなあと思っていたし、なんで俺が生きてんだろうと勝手に思ってた内の一人だった。俺は遠くに行きたいと思い続けているわりに、遠くの事だと切り捨てられるし、その癖に身勝手な自分事に集約するくだらない20代前半だった。今はどうなんだろう。

先月、秋葉原の無差別殺傷事件の犯人に刑が執行された。あの事件はいつ頃起こったんだっけ。もう14年前か。なんだか最近無敵の人とか言われる人がまた増えたな。ジョーカーに扮装しながら、でも顔は隠さないみたいな人もいた。秋葉原の犯人の「あしたも、がんばろう」というタイトルの、「鬱」の点描で描かれたアイドルマスターのイラストをトレースした絵が最近どこかで展示されていたのが記憶に残っている。嫌な絵だけれど、何かが少しだけわかるような気がしてしまった。

印象派達の絵具に残った筆跡やストロークは制作の時空のモノである事を強調するかのようで、作者の痕跡を隠蔽するように描かれた神話の世界から光の目線を人間の住む世界に変えさせようとしているみたいにもみえる。秋葉原の犯人の絵は意味と手垢に収束した記号を一文字ずつグリッド状に配置して、俺には想像できないが、彼が愛着をもったのかもしれないイメージをトレースしている。このイメージが本当のところ彼とどういった距離にあるのかわからない。構造と虚構、身勝手な自分事がこの絵にもうかがえる気がした。

いわゆるマスマーダーたちの中に、俺の中で遠くに切り離しきれないものがあるんじゃないかと勝手に想像してしまい、それを手掛かりに考えてみる。

人間の存在は空中に浮遊するものではなくて、常にbe動詞を伴うんだろ。存在は外界と駆動しあうことで存在し、自己の存在をより確かなものにしたいとその駆動を自分以外の存在との関わりで広がろうと欲望するが、生活圏内の中で出会う存在者との関わりに自己の存在を浮き立たせる事では駆動からなる自律(と勘違うもの)を十分に確認できないと存在が認識している場合に、駆動の対象としての存在者を深度ではなく領域として扱いその欲望か頼りなさを賄おうとするのかもしれない。

ある種のweb空間の網はこの欲望で構成されていると思う。webは存在の見られたいとする欲望を刺激する装置として優秀に振る舞っていると思う。為政者や権力者が銅像を建てる事は、彼が功績と捉える事や或いはその血も彼の存在に含めて、寿命を超えて存在を未来にまで伸ばそうとする、”be”を主語主体のAが消えたとしてもwasにさせずに”be”であろうとする、空間軸の存在欲望から寿命を超えた時間軸にまで拡大しようとする行いなのかもしれない。

存在の欲望と寿命や危機はセットなんだろ。鏡像段階に親の目の中に自分を見つけるような、見られる欲望は存在に備わった機能であるのだろうが、見られるということは同時に孤立なのだろうし、過干渉な目の持ち主が孤立を阻む場合もあるのか。

経済、或いは情報、記号、システム、人間全体の間を媒介する、社会のメディウムが今玉座に居座っているのかもしれない。神の終わりなんてタイトルでキャンバスが貫かれても、代わりのものが今座っているに過ぎないのかもしれない。

神の光に照らされて存在の規範を了解する世界の様に、人間自身もメディウムな社会のメディウムの中に存在のbe動詞を探さなければ存在ができないのだろうか。

あるいは、webの誕生が根本的に存在をそれまでとは変えているのかもしれない。上記の中で、生活圏内とその外部に切り離して話を進めてしまったが、それが間違いで、webはすでに生存空間としてもう繋がっているのかもしれない。

それはただ存在領域が広がったというわけではなくて、イメージの複製可能化が原画(という言葉自体もそうだが)の持つイメージを増大し断片化して破壊した事のように、存在自体がそれまでのありようを増大し断片化し破壊しているのかもしれないし、増大断片化した幻肢に存在は宿らぬはずの痛覚を感じている場合もあるのだろう。

しかしweb後の世界を否定してもしょうがないんだろう。遠近法を持たない熱帯雨林の笑顔に憧れても、俺たちはもうこの知覚を手に入れてしまっているのだろうし。俺は改めて、ココっていうどこだか知らん場所に、あるって事とないって事について見直したいのかもしれない。出来るだけゆっくり。俺にとってはアトリエと、それを回るチンケな事だとしても、俺の生存のある場所について、断片的にだけれども拾い集めている。

  

2022年8月15日